「周りの選手がマネできない天性のレシーブでした」
全国制覇を経験した高校時代でさえ、監督コーチ陣は髙橋のレシーブについて「言うことはなかった」と口をそろえた。
後編となる今回は、中学時代にはリベロ、ときにはセッターでプレーしていた高橋藍が、当時はどんな選手だったのか。髙橋の母校・蜂ヶ岡中(京都)で当時指導していた蒲田義紀先生に話を伺った(本文は当時の内容のまま)
----以下、月刊バレーボール2021年11月号より----
自分に厳しく、周りに優しい
私が蜂ヶ岡中に赴任したのは2015年、髙橋藍が中学2年生のときです。その前に私が西京極中に在籍していたときに当時1年生の彼と対戦することもありましたが、その際はリベロで、ときにはセッターでもプレーしていました。小さい選手がいるな、という印象でした。
実際、直接彼を指導するようになって、レシーブに関してアドバイスしたことはほとんどありません。私の30年近くの指導者人生で、いちばん秀でた選手でした。サーブの落下地点に入る動きからボールタッチは言うまでもなく、手に当たったボールは必ずセッターに返っていました。また、アタックにおいても高い打点でボールをとらえ、ブロックを見て打ち抜く技術も素晴らしく、周りの部員たちに「髙橋のマネをしてみよう」、本人にも「後輩に教えてみて」と言っても、できない(笑) まさに天性でした。
中学時代から自分に厳しく、周りには優しい性格で、3年生のときには満場一致でキャプテンに就きました。本人がいつも目指していたのは「日本一のバレーボール選手になる」。中学では3年間、全国大会に出場しましたが、最後は決勝トーナメント初戦で敗れ、悔しくて泣いていました。ですが、次のステップにつなげるんだ、という思いでその後の練習に取り組んでいました。ただ、3年生の全国大会で優秀選手に選ばれず、最終的に全日本中学生選抜にも入れなかったときは、相当悔しがっていた姿を覚えています。
彼が卒業生ということで、蜂ヶ岡中の現役部員たちも憧れを持っています。今夏には『祝 東京オリンピック出場』という垂れ幕を校舎に垂らしました。私も応援しながらテレビを見ていましたし、「うまいなぁ、さすが藍」と。これからも努力を続けて、日本代表のエースである石川祐希選手を超えるようなプレーヤーになってもらいたいと思います。