バレーボールのVリーグ、V1男子のパナソニックパンサーズは6月11日、チームのリブランディング発表会を行う。そのチームを2023-24シーズンかぎりで去る面々の中でも、ファンから驚きの声が上がったのが大塚達宣だ。幼少期から馴染みがあり、大学在学中から3季をプレーしたチームを離れ、24-25シーズンからはイタリア・セリエAに挑戦する。そのパナソニックで戦ったラストゲーム、本人が明かした涙の瞬間とその胸の内は。
Vリーグ決勝で奮闘を見せた大塚
これが、このユニフォームを着てプレーする最後の試合だとは心していた。とはいえ、コートに立てば勝利を目指すのみ。ましてや正真正銘のシーズン最終戦、2023-24 V・ファイナルステージの決勝だ。3月31日、有明コロシアム(東京)のセンターコートで、大塚達宣は気を吐く。
というのも、この試合でパナソニックは、相手のサントリーサンバーズにサーブでストレスをかけられエースのトーマス・ジェスキー(アメリカ)が封じられる。また西田有志もコンディション面を考慮し、この試合でも途中から出場して得点を重ねたとはいえ、一人だけでは苦しい。そんな状況で大塚は果敢にスパイクを打ち込んだ。それは23-24シーズンで見られた、コート上での姿とは異なった。
振り返れば、早稲田大の現役大学生選手として入団した21-22シーズンからさっそくパナソニックでも得点源を担ってきた大塚。だがジェスキー、西田という強力アタッカーが加わった23-24シーズンは自分の立ち位置を探ることから始めている。
「過去2シーズンは自分が先頭に立って得点していただけに、そうでなくなったときに焦りもありました。ですが、チームとしては悪いことではありませんし、周りが点を取れるのはいいことなので。そのなかで自分がどこで頑張るか。スパイクだけにこだわらなくても、ほかにできることはあります。
いろんな思いを抱えながらでしたが、シーズンを通して『この部分で自分は頑張れる』『自分がこれくらいの数字を出せばチームが安定する』がわかってきました」
決勝を終えた直後は「いろんな感情が出た」
ようやく自身の生きる道を確立できたのは天皇杯を終えたあたりだ。今年3月、V・ファイナルステージ前日のミックスゾーンで大塚はこう語っていた。
「天皇杯で優勝できたことも要因だと思いますし、スパイクもレシーブも数字はシーズン後半にかけてどんどん上がっていました。そこに気持ちのつくり方も上乗せされたので、パフォーマンスも安定してきたのかなと。僕は今のスタイルがしっくりきているんですよ」
その口ぶりはどこかうれしげ。V・レギュラーシーズンにおけるサーブレシーブ成功率はVリーグに進んでから自己最高となる61.1%(全体10位にランクイン)とあって、手応えを感じていたのは確かである。
そこから一転、サントリーとの決勝ではときに鬼気迫る表情で、アタックを打つ大塚の姿があった。
「自分の中でもがんがん攻撃にいこうと思っていました。数字で見るとあんまりよくなかったのですが(アタック得点は25本中7で決定率28%)、自分が試合中に持っていた感覚としては、思ったよりも低かったな、と。もう少し決まっているくらいに感じていたんです。『点を取らないと!!』という思いは強かったと思いますね。
逆にそれが出過ぎたところもあるのかな、とは。拾われるところは拾われていたし、ドミトリー・ムセルスキー選手(ロシア)を中心にブロックでやられる場面も多かったので。そこはまだまだ。これからもっともっと通用するために磨いていきたいところです」
もちろん試合中は、勝利するために何をすべきか、その一心で腕を振り抜いていた。だが、健闘も及ばずストレートで敗れ、優勝を逃すかたちでシーズンを終えることに。試合後の整列が終わり、大塚にも込み上げる思いが。
「まじで、いろんな感情が出ました。でも、悔しいというよりかは…、むしろ悔し涙はゼロです。
この3シーズン、パナソニックに育ててもらいましたし、めちゃくちゃいい先輩たち、いいメンバーでしたから。だからこそ、自分が勝たせることができなかったのもありましたけれど、『これで終わりか…』という気持ちが大きかったです」
恒例だった試合後の円陣。その輪の中で
コート上で大塚はチームメートとハグをかわし、お互いに健闘をたたえあう。そのなかでもひときわ思いがあふれた場面がある。それは数名のメンバーと円陣を組んだときのことだった。その顔ぶれに秘められた背景を大塚はこのように明かした。
「実は僕たち、初めは“パスに難あり”やったんですよ。ジェスキーと僕とともさん(山本智大)の3人でサーブレシーブに入るのですが、数字は悪いわけではないけれど、連携の部分が課題でした。ロラン・ティリ監督から試合でも『ノーエースでいくんだ』『ノータッチエースだけは避けるんだ』と指摘され続けていたんです。そこで3人でいちばんいい解決策を模索して、V・レギュラーラウンドの途中くらいからは試合が終わるたびに、3人で『今日もサーブレシーブ耐えたね』と肩を組んで喜ぶのが儀式みたいになっていました。
そうして途中から交代で入ってくる(垂水)優芽や(仲本)賢優さんが加わって、どんどん増えてきた。たまに永野(健)さんまで入っていましたからね。どんどん輪が大きくなって、しまいにはサーブレシーブする選手全員で円陣をするのが恒例になりました」
決勝では勝利とならなかったが、チーム全体のサーブレシーブ成功率では70.3%と、サントリーの45.4%を大きく上回っていた。「負けたのはしようがない。けれど『よく頑張ったね』って」。円陣の中で、そんな言葉が交わされた。
ただ、いつも試合が終われば必ずやっていたことなのに。このときは格別だった。
「あの円陣を組んだときに涙が出ましたね、僕は」
馴染みあるパナソニックパンサーズへの感謝と胸に秘めた願い
大塚がバレーボールを始め、いちばん最初に入ったチームは、パナソニックパンサーズが枚方で展開している下部組織の「パンサーズジュニア」だった。中学ではパンサーズジュニアをクラブチームの全国大会優勝に導き、大塚達宣の名も全国区に。果たしてトップチームのユニフォームを着ることになるのだが、それは宿命のように感じられた。
大学そして社会人1年目を含めて計3シーズンという時間は、“赤い糸”で結ばれたものどうしとしては短いようにも映る。そのラストゲームはいかなるものだったのか。
「最後だけはどこか、ほかの試合とも違いました。僕からも周りの皆さんに『ありがとうございました』と伝えて、逆にそう言ってもらえて。そのうちに『終わりなんだ』と実感してきました。
それに、表現は難しいですが決して“追い出された”のではなく、どちらかといえば自分からこのタイミングで“行きたい”と伝えていたので。自分が決めていたこと。とはいえ、それでも寂しい思いが湧きました」
枚方出身、ジュニアチームOB。最優秀新人選手賞も手にし、昨年末は天皇杯優勝にも貢献した。これからのパナソニックを担う、それこそゆくゆくは“ミスターパンサーズ”なんて呼ばれる未来だってありえたはず。けれども以前から抱いていた「挑戦したい」気持ちを汲み取ってもらった。その感謝を胸に大塚は今秋、イタリアへ渡る。ただ――
「今だと清水邦広さんがオフシーズンに普及活動や地域活動をたくさんされている姿を見て、やっぱりそういうことを大事にしたいですし、自分の地元でしっかりと恩返したいので。今の清水さんの年齢まで自分がやれるかわからないですけど(笑) 最後はパナソニックに帰ってきたい、その気持ちはありますね」
小さい頃からあこがれ、慣れ親しんだユニフォームを脱ぐ。ひとまずは。そして、またいつか。
(文・写真/坂口功将)
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