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清水邦広、5年前に負った絶望的故障からの「奇跡のカムバック」

 選手生命も危ぶまれたケガから、5年が経った。

 

「細かいところはどんどん記憶が消えているというか、覚えていないですね。当然、直後は記憶が鮮明だったけど、どんどんおぼろげになる。でもそれでいいと思うんです。今は前を向いて進めているということだし、前に向かって走っているんだな、って思います」

 

 東海大在学中に清水邦広がパナソニックパンサーズの内定選手として出場してから、早いもので14シーズンが過ぎた。日本を代表するオポジットとして、パナソニックでも攻撃の要を担い、北京、東京と2度のオリンピックにも出場した。コートで見せるパフォーマンスはいつも圧巻で、力強さと得点後の笑顔で多くの人たちを魅了する、いわば唯一無二ともいうべき存在。だが、ここまでの選手生活を振り返れば常に順風満帆だったわけではなく、むしろ幾度となくケガとの戦いを強いられてきた。

 

 

 「手術の回数を数えても、ヒザだけで7回、足首も2回。子どものころに目の手術もしたので、全部を数えると10回ぐらい。だいぶ多いんですよ」

 

 清水自身も「若いころ」と振り返る20代前半、学生時代からケガは多かったが「多少痛いところがあってもやれる」という気持ちが勝り、大事ととらえてはいなかった。痛みが続いても「2〜3日すればよくなる」「1週間たてば治るだろう」と考え、もしもケガがあると知られたら試合に出られなくなるかもしれない、という不安のほうが大きく、トレーナーにも報告しなかった。「若いころはそれでもプレーできるし、パフォーマンスが上がったりもするんです。それこそウォームアップも、全体で決められたものはやるけれど、事前に自分の身体に適したメニューをプラスしたり、オフの期間に身体をメンテナンスすることなんて考えもしませんでした」

 

 年齢を重ねるにつれ、何もしなければ関節可動域が制限され、数え切れぬほど繰り返してきたジャンプやスイングで蓄積した負債が身体にのしかかる。2012年のロンドンオリンピック最終予選直前に足首の手術を余儀なくされ、オリンピック出場を逃してからは身体への向き合い方も変わり、ストレッチやウォームアップ、ケアにも時間を要するようになった。

 

日々変わる身体の感覚を見逃さないように。筋肉の状態を確かめながら、今はどこが硬いのか。ほぐすためのアプローチはどうすべきか。練習前後はもちろん、入浴後のストレッチにも時間をかけ、ケガのリスクを軽減させるだけでなく、パフォーマンス向上に向けたトレーニングも重ね、心身ともに「絶好調だった」という18年、悪夢ともいうべき大ケガに見舞われた。

 

 2018年2月18日、福岡でのJTサンダーズ(現JTサンダーズ広島)戦が始まって間もない第1セットの序盤だった。サーブレシーブが乱れ、コート外に飛んだボールをトスでつなぎ、ハイセットに合わせ清水がスパイク動作に入る。飛んでくるボールの軌道だけでなく、相手ブロッカーの動きも細部まで見えていて「ここに当てれば(ブロック)アウトになる」と確信を持って打ったスパイクボールが、まだ空中にいる自分に当たりそうになるところまで見えた。

 よけなきゃ。とっさの判断で、空中にいながら余分なひねりを加えた。ほんのわずか、「これまで一度もやったことがない」という動きが空中姿勢を乱し、着地のバランスを崩す。右足をついた瞬間、本来身体がついてくる位置とはまるで違う場所に重心がかかり、右ヒザは清水いわく「ありえない方向」に曲がった。





 想像を絶する痛みに見舞われながらも右ヒザを確認する。見た瞬間、とんでもないケガをしたことをすぐに察した。

「ぐにゃぐにゃに曲がっていたので、それだけで察しました。何より僕、痛みにはめちゃくちゃ強いほうなんですけど、それでも声を上げるぐらい痛かったし、実際コートで動くこともできなかった。病院に搬送されるまでの間はずっと放心状態で、頭も真っ白。『これでバレー人生は終わったな』ということしか頭になかったです」

 右ヒザの腫れや内部での出血がひどく、すぐには診断できなかった。翌日改めて神戸大学医学部附属病院で精密検査をした結果、下された診断は「右ヒザ前十字じん帯断裂」「内側側副じん帯断裂」「軟骨損傷」「半月板損傷」で全治12ヶ月。



 

 精密検査の結果が出る前から自身でもスマートフォンを使い、自身の状態に当てはまる症状を調べた。大きなケガをしたことはわかっているけれど、前十字じん帯断裂ならば復帰まで1年以上はかかる。どうか前十字じん帯断裂ではありませんように、と祈るような思いで臨んだが、突き付けられた現実に「心が折れた」と振り返る。

 「前十字じん帯断裂以外ならばラッキーだ、それならばバレーボールが続けられる、と思っていたんです。だから実際に診断されて、自分の想像以上だった時にもう無理だ、と。ドクターの荒木(大輔)先生に『ありがとうございました。もうバレーボールを続ける気力がなくなったので、これでやめさせていただきます』と言いました」

 これで終わり。涙を浮かべ、あきらめようとした清水を再び引き戻したのが、荒木医師だった。自身だけでなく、整形外科内でヒザの専門医を何人も集め、清水に説いた。

 

「確かに10年前だったら、これは選手生命を絶たれる大きなケガかもしれない。でも10年経って、医療も進歩して治す方法はたくさんある。僕1人で治療方法を考えるのではなくて、いろんな先生たちと話し合いながら、清水くんにとって最善の策を見つけて、治す方法を考えるから、今すぐやめるのではなくて、復帰してから『やっぱり納得いかない』と思うなら、そのとき引退してもいいからもう一回、頑張ってみてくれないか」。絶望の中に、光が見えた瞬間だった。

 

 「わかりました。もう一回やります」

 

 最初は半月板と軟骨を移植する縫合を行い、そのあとじん帯を移植。2度に分けて手術を行った後、再びコートへ立つために、リハビリの日々が始まった。最初は膝の曲げ伸ばしや立つ、歩くといった単純な作業からスタートするも、少しずつできることが増えれば気持ちも前向きになる。バレーボールの動きには程遠いメニューでも、重ねることが復帰につながると取り組み始めたが、またも困難に見舞われた。

 

 約1ヶ月半の入院を経て退院し、パナソニックの体育館でのリハビリに移行しようとした矢先に発熱、体調不良が続いたため病院で診断を受けると、ヒザからの感染症が判明した。洗浄、消毒処置のためにもう一度ヒザの手術を余儀なくされる。しかも術後にすぐリハビリができた前回とは異なり、感染症後は絶対安静が命じられていたため、術後2週間はベッドで寝ていることしかできなかった。

 

 「身体は元気なのに、ヒザが悪いから何もできない。ずっと寝たきりでいなきゃいけないのが、めちゃくちゃきつかったです。それまではできる範囲でリハビリができたのに、またヒザの曲げ伸ばしからやり直し。次の日はもっとよくなるから頑張って今日もやろう、と思う時もあれば、これ大丈夫なん? 今こんな状態でほんまにバレーボールへ復帰できるのか、と思う時もある。日によって全然違う、(気持ちの)アップダウンしかなかったです」

 

 心が折れそうになりながらも、あきらめそうになるたび周囲の人たちがかけてくれる言葉が清水の支えだった。病院へ見舞い、何気ない話をしながら気を紛らせてくれたり、ストレートに励ましたり、それぞれの優しさに触れるなか、最も心動かされたのが、クビアク・ミハウと共に見舞いへ訪れたパナソニック前コーチのモッタパエス・マウリシオ氏にかけられた言葉だったと振り返る。

 

 

 

「『今は変化がなくて苦しいかもしれない。でも小さな積み重ねを続けることで、後に絶対大きな変化を生むから。今すぐ結果を求めてもなかなか変化はないし、状況が劇的によくなることはないかもしれない。でも、目に見えないところで必ずよくなっているから頑張っていこうよ』と言われて、本当にその通りだな、と思いましたね。だから最初は地味なことばかりでも『この積み重ねがつながる』と信じていたし、実際あのときちゃんと曲げ伸ばしをしたり、しっかりリハビリをしてきたから半年後、1年後につながった。小さい全部の積み重ねがあったから、最終的にあれだけのケガをしても自分のヒザとして馴染んで、復帰することができたんだと思います」

 

 ケガをした直後は「世間を遮断して身を隠したいぐらいの気持ちだった」と言うが、試合中の受傷でもあったため、チームのマネージャーから「応援してくれる方々に現状は伝えたほうがいい」と促され、診断結果もSNSで公表した。当初こそ「つらかった」というが、そこに寄せられるメッセージにも励まされ、徐々に自身が味わった苦しさも「伝えることで後に同じ経験をする人の救いや支えになるかもしれない」と思うようになり、リハビリやその都度の状況をで発信した。



 

 はじめは小さな一歩だったが、苦しくても復帰を目指して努力を重ねた。その結果が1つずつ着実につながっていくたびモチベーションも高まる。中でも「いちばんうれしかった」と振り返るのは、ケガから9ヶ月近くが経過したころに、スパイクを打てた時だった。

 

 「それまではずーっとノージャンプでリハビリをしていて、みんなが6対6とかやっている隣、体育館の端っこでラダーを出してアジリティのトレーニングをしていたんです。そこから少しずつ台上へのジャンプができるようになって、『じゃあスパイクを打ってみようか』と。最初は2m、小学生用のネットの高さで打ったんですけど、それでもネットにかかるんです。普通に手が出る高さでネットにかけるって、ありえないですけど、でもうれしかったですね。小学生の頃、同じ高さのネットでスパイクを打って決まった時の喜び、初心に返った気持ちでした」

 2mから2m24cmに上げ、そこから2m30cm、2m40cmと段階を経て、2m43cmのネットでスパイクを打つ。ケガをする前は当たり前だった一本は、清水にとって特別な一本だった。

 


 

 そして大ケガから1年後の19年2月、清水は復帰を果たした。それまで以上に自身の身体に向ける意識は高くなり、ストレッチや左右差をなくすためのトレーニングはもちろん、食事から見直した。加えて、よりよいパフォーマンスを発揮するためにと左右や前方へのぐらつきを軽減すべく、ヒザのサポーターも着用するようになった。


 



 「最初はテーピングで固定していましたが、肌が弱いのでかぶれてしまうんです。何かいい方法はないか、と試行錯誤していたときにトレーナーさんから勧められてつけるようになりました。いろんなサポーターを試してみたのですが、ザムストのサポーターがいちばんズレにくくて、しっくりきた。安定感がないとヒザがグラグラ動いて怖さを感じることもありますが、(ロックされているので)しっかりとした制動力があり、安心してプレーすることができています」

 

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